元理事長 黒川 誠一様がご逝去されました

 福井大学工業会元理事長 黒川 誠一様が、今年5月3日に逝去されました。100歳でした。
黒川様は昭和41年に理事長に就任され、平成12年に退任されるまで実に34年の長きにわたり、福井大学工業会を導いてこられました。その功績は筆舌に尽くしがたいものであります。
 黒川様は昭和10年に福井高等工業学校機械科を卒業され、大阪大学に進まれました。その後、福井精練加工(株)(現 セーレン(株))に入社され、のちに社長として21年にわたって経営の指揮を執られました。その間、現在の主力となっている自動車内装材事業や海外進出などを積極的に展開し、国内有数の総合繊維企業へと押し上げました。
 また地元経済界においても要職を歴任、名刺には載せきれないほどの肩書きがびっしりと並んでいました。昭和55年に藍綬褒章、昭和60年に勲三等瑞宝章を受章されました。
 教育面では、福井大学の地域共同研究センター設置などに尽力、産学官連携を積極的に支援された功績で平成13年に「福井大学名誉博士 第1号」に選ばれています。
 また、工業会誌 「プロジェクトX:福井大学版」 の第一回に登場されておられますので、このホームページよりご覧ください。

 次に、堀 理事長と川上 前理事長から「追悼のことば」が寄せられていますので、掲載します。

黒川 様を偲んで

福井大学工業会理事長 堀 照夫

 偉大な先輩を失い、心より哀悼の意を表します。個人的なことで恐縮ですが、私が今あるのは、学生時代からお世話になった黒川大先輩のお陰といっても過言ではありません。
 昭和43年4月、当時繊維染料学科の4年生であった私は卒業研究の実験を福井精錬加工株式会社(現セーレン)の技術開発部で行うことになり、指導教授と社長室にご挨拶に伺いました。産学官連携に対し風当たりの強い中、黒川社長はにっこり微笑み「頑張ってください」と言われた事が昨日の様に甦ります。私が繊維、染色・加工に興味を抱いたのが、まさに同社の技術開発部に席をおいて研究できたことに始まります。
 当時は、まだ繊維産業が華々しく進展を遂げていた時代であり、大学院進学後も色々な会合等で教授に連れられて参加しました。そこには福井の染色工業の重鎮としていつも黒川社長がご臨席され、繊維産業の現状と将来のあり方を語られ、大いに勇気付けられたものです。
 繊維産業の成長の勢いが衰える中で、黒川様は業界の活性化のために何をすべきか、我々のような若い者にも色々なアイデアを与えてくださいました。また繊維系企業がこの基本技術を生かしながら他の分野に進むべきと言う斬新な考えは、その後の地域の繊維産業に大いに勇気付けられたものです。
 私は、福井に世界的な繊維研究所(IF-TEC)を誘致するための責任者として動き回る中、いつも強いバックアップをしていただいたのも黒川様でした。残念ながらこの構想は実現一歩手前で消滅しましたが、学会・業界が一体となって大いに議論できたことはその後の繊維系の産学官連携に大変役立っています。当時、繊維学会の中心的役割を演じておられた先生方を一堂にお招きいただき、激励されたこと忘れはしません。
 黒川様は、私が学生の時すでに福井大学工業会の理事長でいらっしゃいました。私は福井大学に教員として着任後に工業会に参加するようになりましたが、黒川様は理事長挨拶の最後に必ず、「工業会の発展の基本はクラス会です。皆様、どうぞクラス会を定期的に開いてください」という言葉で結ばれました。今、私は理事長の立場にあり、この言葉の重みをしみじみ感じております。まさに工業会の活性化の基本はクラス会開催だということを痛感しております。理事長としてお努めいただきました34年間での黒川様の業績は枚挙に遑がありません。
 黒川様は工業会の発展のみならず、福井大学に対しては並々ならぬ愛情をお持ちでした。福井大学設置50周年記念事業でのその手腕は、今も語り継がれております。
 私は大学への通勤の途中で、黒川様が90歳を超えても背筋を伸ばして散歩されている様子を良くお見かけし、私もこのようにありたいと思ったものです。
 黒川様の多くのご功績と与えていただいた数々の言葉に感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

黒川誠一 元理事長を偲んで

前 福井大学工業会理事長 川上 英男

 黒川元理事長は1935(昭和10)年に現工学部の前身福井高等工業学校機械科を卒業後、大阪大学に進まれた。福井に帰ってから現「セーレン」を率い、福井の実業界をはじめ各方面でご活躍された知名の人である。福井大学工業会理事長もそのご活躍の一つで、1966(昭和41)年に就任され、1938年設立の工業会77年の歴史のうち、ご在任は34年にわたった。
 1953年、福井大学1期生として卒業し、母校に奉職した私は、理事会では末席から理事長の議事進行振りを見学する機会に恵まれた。時を経て2000(平成12)年、理事長をご退任の折、『これからは大学卒の皆さんの時代です。』 と、私に後任を託された。その間の幾つかの思い出に触れて、追悼とさせていただきます。

 黒川理事長の任期中の大学は、戦中の空襲、戦後の福井地震・水害の悲運から立ち上がった後の充実期に当たる。学科の増設、大学院の設置、各種の研究施設など拡充と整備が進み、一方では実現こそしなかったが、第三学部設立構想も一再ならず持ち上がったこともあった。その間理事長として、一貫して大学との連携とその支援を継続してこられた。
 理事会では委員から 「工業会に納入された終身会費を効率良く活用するための運用委員会を設けては?」 との提案が出されたことがあった。黒川理事長は即座に『ハイリターンにはハイリスクが付きものというのは常識です』 と戒められた。実業家としての警句でもあったろう。
 工学部創立50周年記念事業として出版された『福井大学工学部50年史』 序文には、「この学府は風雲を重ねた50年後もまさしく未来を夢見る青春の故郷、この学舎に集った人々にとって過ぎし日の青春なのであります。」 と、同窓会員への深い思いを記されている。
 福井大学設置50周年の記念事業では募金委員長を務められた。大学側の要望3億円に対し、拠金額は約3億1,500万円を達成し、国庫に寄付された。その記念館としてアカデミーホールが新築され、そこに工業会事務局も移転した。また9千万円が30年間の大学の学術交流資金に充てられた。
 ご趣味で存じ上げているのは俳句、書画である。「その道である程度極めるには1万時間が要る」 と、触れておられた。俳句では、伊藤柏翠主宰の「花鳥」同人会長。またアカデミーホール小会議室には、理事長寄贈のイタリア・アッシジの油絵が掲げてある。自社の染色先端技術を駆使した複製という。明るい空に聳える教会尖塔の絵に、在りし日の温顔を偲んでいる。

 ここに改めて黒川様のご功績の大きさに感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。